愛護の語りの発端部分「ここに七十三代のみかどをば嵯峨の天皇と申し奉る」とあります。

ただし七十三代の天皇は堀川天皇(ほりかわてんのう)であり、嵯峨天皇(さがてんのう)は五十二代なのです。

畏れ多いこととわざとたばかったのか、無知故か、また何かに理由があったのか想像は広がりますが、今回は嵯峨天皇の時代を妄想してみたいと思います。

嵯峨天皇は平城天皇(へいぜいてんのう)の弟で桓武天皇(かんむてんのう)の次男です。

病弱だった平城は三年で弟に皇位を譲り、自分の子高岳親王(たかおかしんのう)を皇太子にします。

平城は皇太子時代に人妻の藤原の薬子(くすこ)と不倫関係があり、それに怒った父の桓武天皇は薬子を追放してしまうのですが、即位後薬子を呼び戻して尚侍(ないしのかみ)にした過去がありました。

その薬子が兄の仲成とともにもう一度平城を重祚(ちょうそ 再即位)しようと画策して失敗に終わる事件がありました。(薬子の乱)

結局薬子は自殺、仲成は殺され、平城は出家、高岳親王は廃太子となり、後に出家して真如と号し東寺に住みました。

やがて真如となった高岳親王はインドに入ろうとして海を渡りましたが、目的を果たせずスマトラ・マラヤの海峡で死んだと伝えられています。

そして現代、‘60年代のインド在住のギリシャ人のヒッピーの話。

「ギリシャにいたある日、インド行きのバスが目の前に来たのでそのままそれに乗ってインドに来た」

その話を聞いた時ギリシャとインドはなるほど陸で繋がっていて、歩いてでも行けるのだと気づきました。

平安時代に、皇族の高岳でさえインドへ行こうとして出国し、スマトラ・マライ辺りまで行けたことを思えば、ギリシャの文化がインドか中国を媒介して日本に入ってくるのは少しも不思議なことではないと思われます。

mousou